僕らのしあわせは、誰かの不幸せの上に乗っかっている

夜23時半。遅い食事を終えて皿を洗っていると、ドアチャイムが鳴ります。ランプによれば共同玄関から。相方と「誰?こんな遅く」と言葉を交わし、受話器を取ります。「○○○○便です」。こんな遅くに。ありえない時間帯。しかも何が来たんだろう。Amazonやら他に注文したものは思いつくのは全部来てるはずだし、はて。

印鑑を取り出し、一応ドアの覗き窓から確認。格好は間違いなく宅配便屋さんだ。ドアを開ける。

「荷物です。着払いです。」

懐疑心満載でこちらは対応しているので、「着払い」と聞いた時点で伝票の確認。宛先の名字が違う。住所も違う。

「あの、うちじゃないんですけど。」

そこには初老の宅配便屋さん。

「いや、先程お電話差し上げたんですが……、あ、違いますね。」

「いえ、どうも」

ドアを閉める。

こんな時間に宅配便。調べてみると、宅配便屋さんの時間指定は21時までのところが多いようなんですが、どうなんでしょうか。しかもやって来たのは初老の方。

「多様なニーズに応える」という名目で、サービス業の営業時間が長くなっています。流通業や飲食業、24時間営業のクリーニング屋やマッサージ店もあります。それですごくうまくビジネスが回るのであれば何も言いませんが、素人目には「打開策として」「競合がはじめたので」というような建設的な計画に沿ったものには思えないものだってあります。

「多様なニーズ」に全部応えなくてもいいんじゃないのかな、と。多様なニーズの幾らかは、単なるその場限りのわがままだったりしますし。

僕らのしあわせは、誰かの不幸せの上に乗っかっている。そう思えるときがときどきあります。そんなことを考えはじめると、正直自分の仕事がつじつま(ん?違うかな)が合っていないように思えてきて、いたたまれなくなるのですが、それでも「みんなのしあわせの上に乗っかったしあわせ」状態を作り出すにはと考え直したりして、前を向こうとします。

そう、この話にオチはないのですが、初老の宅配便屋さんの疲れた顔を見て、世の中は複雑で、そして僕もその複雑な世の中のひとつの「ネジ」みたいなものなんだろうなあと、思った次第。